松尾スズキ台本・演出「キャバレー」@青山劇場

阿部サダヲはすごい!
阿部サダヲはどこまでできるのだろう。マルチタレントすぎる。この安っぽく下世話なキャバレー世界を成立させるすばらしいMCぶりだった。
あと大好きな秋山奈津子さんと、森山未來君と。
森山くんはもっと歌って踊ってほしかったがほぼ1曲しか歌わない。それは役なので仕方がないか。
松雪泰子さんは女優にしては歌がお上手だ。精一杯頑張っている。しかしその精一杯さが伝わってきてしまい、こっちが苦しくなってしまうのだった。
器の大きな女優さんなので、期待は残るが。


本当に歌というのは難しい… “一生懸命”余白を残さないといけない。
うまい人が軽々と歌うとそこに余白が出来て、こちらがそこで思い入れたり、遊べたり鑑賞の余地ができるのだが
精一杯100パーセント歌ってしまうと、もはや見ている者を寄せ付けない。他者をすでに拒絶してしまっている。
見ている側は「うわ〜あんなに汗かいて一生懸命歌っちゃって」と遠くから斜めに見るしかなくなってしまう。


余白を残すというのは歌にとって、音楽にとって非常に重要なことである。
何もない空間があればこそ、そこで音が響き、拡がっていく。
身のぎゅうぎゅうに詰まったところでは音は「ぼすっ」と小さくとどまり、閉塞する。
それは歌を歌う姿勢にも共通するものらしい。
そんなことを考えた夜だった。
そしてバカみたいに歌はうまいけど全然オモシロがれなかった、山本くんの「ヘドウィグ」のことを思い出したりした。
さらには、歌にいっこも感情なんか移入しないけれどもコロコロとこぶしを回し軽々と「北海盆歌」を歌う細川たかしなんかも思い出した。


果たして松尾ちゃんはというと、楽しめるまでに回復したようだった。
カーテンコールではおかしな踊りでうれしそうに「妖怪人間ベム」の歌を歌っていた。


「空中キャンプ」さんが前に書いていたっけ。
例えば社会問題について真剣に怒っている人には共感できないけれども
マイケル・ムーアのように「ふざけながら怒っている人」には共感できると。
そういうことなんだろうなあ。余裕のない人には共感できない、という。


もうすぐ岡村ちゃん復帰ライブに行く。
岡村ちゃんは以前「余裕がなくなっちゃった」人である。
しかし岡村ちゃんはそれを客観視して自分が面白くなくなっていることがわかるぐらいに才能がある人だったから
薬で loosen up してむりしゃり余裕を作っちゃったのだ。
お酒くらいで済んでればよかったのだがの。
誰よりも音を楽しむことを知っている岡村ちゃんの復活。楽しみである。